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東京地方裁判所 平成4年(ワ)18040号 判決

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告に対し、五八六万六二一七円及びこれに対する平成四年一一月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告と被告の従業員が株式取引について事前の損失保証ないし事後の損失補填の合意をしたにもかかわらず合意の履行をしないことが、被告の事業の執行につき被用者により原告に損害を与えたことになるとして、不法行為(民法七一五条)による損害賠償請求権に基づき、別紙一「損失計算書」記載の補填されるべき損失三八六万六二一七円及び慰謝料二〇〇万円の合計五八六万六二一七円並びにこれに対する合意不履行日の後であり本訴状送達の日の翌日である平成四年一一月三日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実等

1 原告は、昭和二八年三月に東北大学法学部を卒業し、乙山生命保険株式会社に入社し、三二年間同社に勤務し、退職時には新宿支社長、丙川団体支社長の役職にあった。同社退職後は関連会社や不動産会社に勤務した職歴を有し、平成二年二月二日から現在に至るまでは年金生活を送る六四歳の男性であり、昭和六三年四月四日から平成四年三月九日までの間、被告の浜松町貿易センタ-支店(以下「本件支店」という。)との間で株式の取引を行った。

2 被告は有価証券の売買等を業とする会社であり、内田伊佐夫(以下「内田」という。)は本件支店における原告との取引の直接担当者、山本岩雄(以下「山本」という。)は平成元年三月から平成三年一一月までの間、本件支店の支店長として在籍していた。

二  争点

1 被告の従業員である内田及び山本による事前の損失保証及び事後の損失補填の合意の有無及び右合意による民法七一五条の不法行為の成否。

(原告の主張)

〈1〉 内田は、原告が被告と取引を開始するに当たり、原告に対して、株式の銘柄、数量、売買の時期等一切を内田の指示通りに行なうことを要求し、原告がこのように行動する限り、「利益は必ず保証する。損失は絶対に掛けないことを保証する。万が一にも損失を与えた場合には短期間にこの損失を補償する。」と申入れたため、原告はこれを承諾した。これにより原告と内田とは、原告と被告との株式の取引に関して事前の損失保証合意をなした。

そして、原告は、その指示のままに本件株式の取引を行なった。

〈2〉 前記のように、株式の取引は昭和六三年四月四日に開始されたが、原告は東京都内に自宅を購入したため資金に余裕がなくなったこと、平成二年二月からは安定した年金生活に入る希望を表明したことから、平成元年八月一日の買付を最後として同年一一月には取引を中止した。

しかるに、平成二年一〇月ころ、原告は内田からの電話により、株式の取引再開を強く勧誘された。電話の内容は、「湾岸戦争が始まろうとしている今だからこそ株取引の絶好のチャンスである。株式購入資金は以前利用したことのあるゴルフ会員権担保ロ-ンを利用したらよい。金利は約一〇パ-セントと高いが、短期の売り抜けであるから金利のことは心配いらない。絶対に損をさせることはない。」というものであった。原告は今更投資を再開する意思は全くないとして提案を強く拒絶したが、毎晩のように執拗かつ強引な電話があり、「利益は必ず保証する。損失は絶対に掛けないことを保証する。万が一にも損失を与えた場合には短期間にこの損失を補償する。また、従前の損失とともに借入金の負担金利分も含めてこの全額の保証をすることを約束する。」として取引の再開を強く勧誘した。

当時は、証券会社の中間決算が新聞等でも報道され、原告も証券会社の業績悪化を知っていたため、内田もこれに対する対応で大変なのであろうと同情していた。そして、最終的には絶対に損をさせないという内田の言葉を信頼し、右勧誘条件の受入れを絶対条件として合意した上、原告は、平成二年一〇月二三日約定のアマダ株の買付により被告との株式取引を再開した。

〈3〉 このような合意に基づいて、原告は、内田との間において、平成三年三月中旬、取引再開以前にかかる当初の取引の損失はもちろん、再開後の損失及びこれらの負担金利分をも含む従来の総損失額を別途清算の上、この金額を平成三年四月三〇日限り補填する旨の合意をなしたが、この支払をせず、弁済期を同年七月二〇日に延期したものの、この延期期日においても、損失が補填されなかった。

〈4〉 そこで、原告は、被告の本社監査室の田村次長に面談を求め、従前の経緯を説明したところ、本件支店の支店長であった山本の紹介を受け、原告と内田、山本の三名は、平成三年八月一四日、本件損失補填について話し合いの機会を持った。その席で、山本は、内田が退職することになったので、山本が内田の損を引き継いで、新規公開株でこれを埋めていきたいと提案し、原告のこれまでの投資額を一二五〇万円と合意した上、この金額とこれからの投資額の合計よりも、原告が取引により回収する額の方が下回るときは、この額を損失としてこれを補填する旨保証した。

以後、山本は約束に従って、新規公開株で損失の穴埋めを行なう対応をしていたが、平成三年一一月になり、山本までが突然四日市支店に転勤することとなり、以後、原告の損失は補填されることなく現在に至っている。

〈5〉 内田及び山本は、被告の業務の一環として、顧客である原告に対してこのような損失保証をなした。原告が本件株式の取引に応じたのは、この損失保証がなされていたからであって、この合意が反故となるのであればこれが不法行為となることは明らかである。

(被告の主張)

〈1〉 内田及び山本は、いかなる意味でも、原告との間に本件株式取引に関して損失保証の合意をなしたことはない。

〈2〉 平成四年一月一日施行の平成三年法律第九六号「証券取引法及び外国証券業者に関する法律の一部を改正する法律」によって、施行前になされた損失保証の合意であっても、これに基づいて損失の補填をなすことが刑罰をもって禁止されることになった。

したがって、仮に原告主張の合意がなされていたとしても、被告が損失の補填をしないことには何ら違法性がなく、合意に基づく補填をしないことが違法であるとすることを前提とする原告による不法行為の主張は、それ自体失当である。

2 原告の被った損害額

(原告の主張)

原告は本件株式取引により次の損害を被った。

〈1〉 本件株式取引による損失

原告の投資額であり損失補填の基準として合意された前記一二五〇万円に平成三年九月一七日付け買付のベリテ一〇〇〇株一八五万円を加算した一四三五万円及び以後の負担金利九六万七六〇二円の合計一五三一万七六〇二円から平成三年一〇月二二日付け売付三精輸送機二〇〇〇株、同年一二月二四日付け売付ベリテ一〇〇〇株、平成四年三月九日付け売付モスフード一〇〇〇株の各売却代金合計一一四五万一三八五円を控除した三八六万六二一七円の損害を被った(別紙一「損失計算書」記載のとおり)。

〈2〉 慰謝料

原告は、本件株式取引を通じて利益はほとんどなく、ただ損失のみが増加したばかりか、平成二年一〇月中旬からの取引再開後は、絶えず買付資金調達の原因である借入金に対する年一〇・八パーセント(ただし、平成四年三月一〇日以降は減率)の支払対策の不安に悩まされてきた。このため、本来享受できたはずであった定年後の余生の安住と平穏な年金生活の心の安定を著しく侵害され、これが原因で重度の胃腸障害に冒され、体重も急激に減少し、毎日の如く体調に変調をきたすようになるなど体質も変化してしまった。

このような精神的・肉体的苦痛を慰謝するのに必要な金額は二〇〇万円を下らない。

第三  争点に対する判断

一  本件の時代背景について

本件紛争の原因となった時代背景となったブラックマンデー以降の株価の変動等を概観すると、おおよそ次のとおりである。

1 昭和六二年一〇月一九日の月曜日(ブラックマンデー「暗黒の月曜日」)に、ニューヨーク株式市場のダウ工業株三〇種平均が一気に五〇八ドル、率にして二二・六パーセント下落した。これは、一九二九年世界恐慌の発火点となった昭和四年一〇月二八日「暗黒の木曜日」の下落率一二・八パーセントをはるかに下回る大暴落となり、この影響は翌日の東京市場に直ちに現われ、日経平均株価が一日で三八三六円四八銭、率にして一四・九パーセント下落した。このような下げ幅、下落率は株式市場始まって以来の暴落ぶりであり、全世界に大恐慌到来かとの危機感が募った。

2 しかし、東京市場はその翌日である昭和六二年一〇月二一日には前日の値下がり分の七割を一気に回復し、日本では恐慌とは逆に大好況へと進み、これと歩調を合わせるように、早くも翌六三年三月初旬には暴落前の水準(二万五七四六円五六銭)を上回り、ブラックマンデーは一時的な混乱に終わり、その後の株価は、同年一二月七日には三万円台に乗せ、平成元年に入っても八月一六日には三万五〇〇〇円台を突破し、同年の大納会では三万八九一五円八七銭となるなど、株価はほぼ一本調子の右肩上がりの上昇を続けていた。

3 しかし、平成二年になると、年初の二か月で株式時価総額の八八兆円という国民総生産の四分の一近くが一瞬にして消失し、その後は、同年八月のイラクによるクウェート侵攻に始まる湾岸戦争が平成三年三月に終結しても株価は回復せず、今回は、従前の幾多のいわゆる経済危機では短期間に急激に景気・株価等が回復してきたのとはかなり異なった様相を呈しながら現在に至っている。

4 そして、平成三年夏には、大手四社を含む多くの証券会社が、株価の急落で多額の損失を出した企業や機関投資家などの大口顧客に損失補填をしていたことが発覚した。その金額は同年七月末に報告された分のみでも一七社、一七二〇億円に達した。この不祥事を契機として、補填の温床となった「取引一任勘定」や証券会社による株式の大量推奨販売も禁じられた。

以上は公知の事実である。

二  事前ないし事後の損失保証の有無について

1 原告は、居住していた茅ヶ崎を引き払い、東京都狛江市内に自宅を購入するに際して、銀行のローンを利用したこともあり資金に余裕がなくなり、また平成二年二月からは年金生活に入ることでもあるので安定した生活を送るために以後は株式投資は中止したいと申入れ、平成元年八月一日の買付を最後として同年一一月に取引を中止している。

この平成元年一一月という時期は、前記認定のとおり、株価が日々高値を更新しまさに最高値に迫ろうとしていたときであり、仮に原告に株式投資に対する強い意欲があったとすれば、一般にはこの時期に取引自体を終了してしまうとは考え難い時期である。

したがって、原告が株式の取引を中止したのは、都内に自宅を購入したこともあり、今後は株式投資とは全く無縁な安定した年金生活を送りたいとする気持ちを優先させた判断の結果であったと認められる。

2 しかるに、平成二年一〇月ころ、内田からの株式の取引を再開するよう電話をかけてきた。内田からの電話の内容は、「現在株価は低迷している。湾岸戦争が始まろうとしている今だからこそ株取引の絶好のチャンスである。購入資金は以前利用したことがあるゴルフ会員権を担保に借入れをしたらよい。金利は一〇パーセントと高いが短期の売り抜けだから金利のことは心配いらない。絶対に損をさせることはない。」というものであった。

しかし、前記のとおり、原告は既に安定した年金生活を送る意向を固めていたために、株式投資を再開する意思は全くないとしてこれを拒絶していた。

他方、内田は、おそらくは前記のような株式市況の低迷の中で従前の顧客との取引を再開することにより局面を打開しようとしたものと推測されるが、頑強に取引の再開を拒絶する原告に対して、毎晩のように執拗かつ強引な電話をして、原告に取引の再開を決意させるためには相当有利な提案をしなければ無理であると考えるに至り、遂には、「利益は必ず保証する。損失は絶対に掛けないことを保証する。万が一にも損失を与えた場合には短期間にこの損失を補償する。また、従前の損失も負担金利分を含めてこの全額を補償する。」として取引の再開を勧誘したものと認められる。

3 原告には、少なくとも、リスクを覚悟してでも株で儲けようとの意識がなかったことは前記認定のとおりであり、しかも、内田の提案が約一〇パーセントもの金利のゴルフ会員権ローンを利用することを前提とするものであったことからすると、原告としては、金利分をも含めた損失の全額保証を提案されて初めて再開を検討するに至ったとすることも十分に考えられるところである。

原告も供述するように、当時は、証券会社の中間決算が新聞等でも報道され、原告もこの業績悪化を知っていたため、証券会社の従業員である内田もこのような状況の中で大変な苦労をしているのであろうと同情していたことも事実である。しかし、前記のように、株価上昇の絶頂期直前の時期に安定した生活を送りたいがために取引中止を決意していた原告が、株価の低迷の続くこの時期に取引を再開するためには、この不安を払拭するに十分な、よほど強いインパクトがなければならなかったものとみるのが相当である。

そして、前記のように損失補填が証券会社においてかなり広範に行なわれていたという当時の時代背景からしても、右のような強いインパクトがまさに内田の提案した損失保証であったと認めるのが相当である。

4 そうすると、少なくとも、原告が平成二年一〇月二三日約定のアマダ株の買付により被告との株式取引を再開した時点において、内田との間に、「利益は必ず保証する。損失は絶対に掛けないことを保証する。万が一にも損失を与えた場合には短期間にこの損失を補償する。また、従前の損失も負担金利分を含めてこの全額を補償する。」とする損失保証の合意がなされたものと認められる。

5 ところで、原告は、平成三年八月一四日、内田とともに本件支店の山本支店長との間にも損失保証の合意がなされたと主張する。

しかし、この当時は、前記のとおり、証券会社による損失補填が世間で大問題となっていた時期であり、このような時期に損失の補填に関する明確な合意がなされたとはにわかに認めがたい。

6 なお、原告と被告との株式取引は、別紙二「取引分析表[1](信用)」及び別紙三「取引分析表[2]」のとおりである。

三  不法行為の成否について

1 有価証券の売買その他の取引につき、証券会社が顧客に対し、事前又は事後に損失保証ないし利益保証をすることは、平成四年一月一日施行の平成三年法律第九六号「証券取引法及び外国証券業者に関する法律の一部を改正する法律」をもって、網羅的かつ厳重に禁止されることになった(右法律による改正後の証券取引法五〇条の二第一項一、二号)(なお、右五〇条の二の規定は平成四年法律第八七号により一条繰り下げられ、同条の三となっている。以下同じ。)。

同法は、更に、証券会社の顧客が自己の要求によりそのような約束を得ることも禁止し(改正後の証券取引法五〇条の二第二項一、二号)、これらの禁止規定は、懲役刑を含む重い刑罰をもって強制されることとなった(改正後の証券取引法一九九条一号の五、二〇〇条三号の三)(なお、右一九九条一号の五の規定は平成四年法律第八七号により一号繰り下げられ、一号の六となっている。)。

2 右法改正前にも、事前の損失保証については証券会社が行なうことを禁止する規定が設けられていた(右法律による改正前の証券取引法五〇条一項二号、五八条一号)。しかし、右改正法は、損失保証や利益保証等により証券取引の秩序が大きく歪められた苦い経験を踏まえて、健全な証券取引法秩序を維持するために、事前及び事後の損失保証及び利益保証のほか、そのような約束のない損失補填についても、具体的かつ網羅的にその態様を掲げて、証券会社がこれらの行為を行なうことを禁止するとともに、顧客に対してもこれらを要求する行為を禁止し、違反者に対しては懲役刑を含む重い刑罰を課することにした。

3 前記改正法が、事前及び事後の損失保証を明瞭かつ厳重に禁じたのは、それが健全な証券取引秩序を害し、証券取引上の公序良俗を損なう反社会的なものであると評価したためである。そうすると、顧客と証券会社との間に損失保証の合意が成立したとしても、その合意に基づく損失の補填と同様の結果を不法行為による損害賠償として認めるときは、結果として反社会的な公序良俗違反の結果を実現することになってしまう。

しかし、このようなことは、社会的にみて容認できない法律行為の実現を望む者への助力を拒むことを趣旨とする民法九〇条ないしこれと同趣旨の民法七〇八条の規定の趣旨に明確に反するものである。したがって、損失の補填と同様の結果をもたらすことになる不法行為による損害の賠償請求はこれを否定するのが相当である。

このように解しないと、前記改正法が実現しようとした目的を実質的に害することになるからである。

4 確かに、証券取引についてほとんど知識がなく意欲もないような個人投資家に対し詐欺的な言動を用いて損失保証を約したような特段の事情が認められるときは、限定的に不法行為による請求が容認されることもあり得よう。

しかし、本件の原告は、前記のとおり、三二年間にわたり乙山生命保険株式会社に勤務し、しかも、退職時には同社の新宿支社長や丙川団体支社長の役職を歴任していたことなどの経歴からして株式取引の何たるかについて一般的な社会常識を十分に兼ね備えていたはずであるし、また、順調に株価が推移していたときでさえ株式の取引には大きな危険性を伴うものであることを認識していたからこそ途中で取引を中断していたことからも分かるように、原告は株式取引の危険性についても十分な認識を有していたものと認められる。

以上のような点を考慮すると、原告は、特定人に対してのみ損失保証を行なうことが健全な証券取引秩序を害することとなり、このことが証券取引上の公序良俗を損なう反社会的なものであるとすることを十分に理解するに足りる健全な常識の持ち主であると認められるのであるから、原告の本件株式の取引が、証券取引についてほとんど知識がなく意欲もないような個人投資家に対し詐欺的な言動を用いてなされたというような前記特段の事情の認められる場合に該当しないことは明らかである。

四  結論

以上によれば、その余について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がない。

(裁判官 林 圭介)

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